自分と他者と比較しても意味はありません。比較するなら過去の自分自身とすることです。
この記事は次のような人におすすめです
- 他者と自分を比較すると意識の進化から遠ざかる理由がわかります
意識の進化には他者との比較は必要ない
小さい頃に親から兄弟姉妹と比較されて、「お姉ちゃんは勉強ができるのに、どうしてあなたは勉強できないの?」と言われたのが最初に体験した比較だという人も多いのではないでしょうか。
比較は劣等感や優越感を体験するために存在している
小学校での通信簿やテスト、中学高校などでの偏差値は比較という体験するために存在していました。
他者と比較することで得られる喜びや心配を体験するという役割があったからです。
しかし、他者と比較するのは無用です。
人は見た目は他者とほとんど変わらないので実感しにくいのですが、動物とは根本的に存在している目的が違うからです。
例えば、サルは見た目はもちろん、やることすることがどの個体も同じです。
道具を発明したサルは一度も聞いたことはありません。
人だけが見た目は同じだけど、行動はてんでばらばらです。
つまり地球に存在している目的が皆違って当たり前であり、その目的を遂行するのに必要な持ってきた能力も皆違うのは当たり前のことだからです。
それなのに、他者と自分を比較するというのは無用の長物です。
人の身体を操っている意識である個性が多種多少なのもそうですが、それぞれの意識の進化度合が違うからということも言えます。
それにも関わらず、進化具合が違う意識や、存在している目的が異なる他者と比較すること自体に意味はないのです。
皆違って当たり前なので、その違いを比較することには意味がありません。
人が皆が同じ価値観や姿形だったら、世界が面白くないのは容易にわかると思います。
例えば周りが全員自分と同じだったら、世の中のありとあらゆる体験ができないですよね。
比較が存在している理由は劣等感や優越感を感じる体験をするためです。
過去の自分自身と比較して視野を広げるのが大切
各自の存在している目的が違うので他者と比較するのは不用だということが理解できたかと思います。
意識の進化に必要なので比較が必要な意識も存在します。
そして比較したほうが達成感や、やりがいを感じる価値観を持った人(意識)もいます。
そういった、今までの価値観での比較は相対評価が主でした。
相対評価は常に他者と競争することになります。
自分の努力で成し遂げた地位が脅かされるといった不安や恐怖に常に脅かされるという体験をすることになります。
相対評価は際限なく上のに存在と比較されることになります。
日本での比較から始まり、地球での比較、銀河系での比較、宇宙での比較と上にある比較対象にはキリがありません。
他者との比較は、上には上の意識存在がいるので堂々巡り延々に繰り返すだけということに気づくかどうかにかかってきます。
なので、もし比較するのなら常に過去の自分自身と比較する絶対評価に留めておくべきです。
なぜなら、過去の自分との比較なら絶望感や劣等感を感じることはないからです。
絶対評価は成長しているプロセスを実感できて達成感や充実感を生むので自信に繋がり、自己肯定感も高まるなど良いことづくめです。
そのうえ、他者への嫉妬や批判という感情も生まれません。
- 相対評価とは他者と比較する評価
- 絶対評価とは他者と比較しない評価
学校や会社の相対評価は前時代的な価値観
学校のテストや偏差値、会社の組織などで行われている評価はどれも相対評価です。
相対評価で他者と競わせるというのは、競争と比較の世界を体験したい意識にとっては問題ないのですが、例えば、生活のためにお金を稼ぐ目的だけで我慢をして組織で働いていて、なおかつ平安の世界に生きたい意識にとっては辛い体験になります。
なぜなら、他人との比較による評価によって劣等感や無価値観を感じてしまい、自分軸を見失い、他人軸で生きてしまうことになりかねないからです。
物質主義で、本来はお金が全てという”お金に支配”されたシステムを利用していることが根本原因なのですが、お金は生きていくために欠かせません。なのでお金を無くすことが先決なのは言うまでもありません。
会社は相対評価
会社での評価はお金という限られた資源を分配するという目的と、他者と競争させて組織の発展を促すために存在しています。
昔に出来た組織や会社は縦社会のピラミッド構造になっていて、支配コントロール、競争や比較のエネルギーが根元にあり、意識の進化からは程遠い価値観で成り立っています。
とはいえ、現状は時代の過渡期なので、まだお金は生きていくのに必要です。
勿論、意識が進化して、視野が広がり自分の本来の役割が見つかれば、組織や会社にしがみつかなくてもよくなるのですが、まだまだ自分の役割が分からない人が大多数なのが実情です。
なので、前時代的な縦社会の組織の在り方や評価制度なども見直されて相対評価は今後なくなるだろうと思われます。
有限という価値観が比較の原因
比較というのは有限という価値観から発生しました。
そもそもすべてが無限だったら比較する必要性がありません。
無限のものを分配するための公平なルールは必要ないからです。
有限だからこそ皆に分け与えるためのルールが必要なだけです。
お金は本来は無限のエネルギーを目に見える姿形に制限して、有限にするために存在しています。
万物は無限のエネルギーが姿形を変えているだけだからです。
では、なぜ有限にしているのかというと、そのほうが体験の幅が出るからです。
例えば、石油は有限のほうがお金というエネルギーに交換することができます。
有限のものほど価値が出るからです。
そもそもエネルギーは無限なのですがそれは脇に置いてお行きます。
なんと、無限のものにはお金は発生しないのです。空気がそうですね。
ただ、空気にお金が掛からないのは技術的に空気を別けることが出来ないためです。
誰かの所有物にできないものにはお金は発生しません。言い換えると別けることができるものは全てお金を得る手段に転換されています。
ようするに、本来は無限のエネルギーを敢えて有限にすることでお金を作り出し、制限を体験していただけのことなのです。
このことから、すべてはお金が諸悪の根源だということに気づくのが大切です。
とはいえ、お金は物質主義から卒業して意識を進化させるための大切な役割を担っています。
有限と思うから不足を体験できる
お金は有限なので不足という体験ができます。
限られたお金の分配率を競争の結果で決めるのが相対評価と言えます。
その結果、競争に勝ち残った人は優越感を感じますが、その反対の人たちには劣等感や妬み、嫉妬という感情が生まれてしまいます。
他者との比較は有限だということを信じているから体験できることです。
例えば、地球上にある空気や水は無限です。水は減っている様に見えても液体から気体に状態が変化しているだけです。
実は肉体の死も水のように状態が変化するだけです。
死があると信じ込んだほうが体験の幅が広がります。
人生は有限で死ぬとすべてが終わるという信念があると、あと先を考えず、今この瞬間だけを充実させて生きようとする弊害もありますが、それも体験であり意識の進化に必要なことなのです。
お金はエネルギーを可視化しているだけ
お金は元々は感謝などの無限のエネルギーをわざと有限にするために物質としてお金にしているだけです。
全世界の紙幣や貨幣の実存している物理的な量よりも遥かに多い額がデータとして存在しているので限りなく無限に近いとも言えます。
まとめ
他者との比較は優越感と無価値観を感じる体験に必要なだけなので、そのことに気づくことさえできれば他者と比較して劣等感や無価値観で苦しむことはなくなります。
A子の彼氏のほうがイケメンだ、B子の旦那のほうが年収が高い等々よく耳にする比較ですね。それによって生まれる羨望や確執などの負の感情は挙げたらきりがないほどです。
人はそれぞれ違って当たり前なので、比較することに意味がない真実に気づくときは必ず訪れますが、それがいつになるかは自分次第です。周りが気づかせてくれることは決してありません。
そもそもなぜ、他者と比較してしまうのでしょうか?
優越感を感じたいからです。
常にだれかと比較して自分が優れていないと不安になるからではないでしょうか。
それも貴重な体験の一部なので大事なのですが、その感情を味わい尽くしたら、比較からは卒業しましょう。
たしかに、優越感を感じる体験は気分が良いのですが、上には上の存在が必ずいます。
そうなるとこんどは一転して劣等感を感じてしまいます。
他者と比較することで妬みや嫉みの人間ドラマを体験できるのですが、それを続けている限り、不安や劣等感からは卒業できません。
つまり、外の世界の他者と比較している限りは意識の進展はないのです。
比較して良いのは過去の自分自身とだけです。
- 他者と比較することで優越感や嫉妬という感情を体験でき、人間ドラマを楽しめるが、味わい尽くしたら比較することから卒業しよう
- 比較することで生まれる羨望はその感情を体験するためにある。他者を変えようとして外の世界に働きかけると意識の進化からは遠ざかる。比較するのは過去の自分だけだと心得よう